今週の礼拝説教

2025 年5月18日の説教

聖書:出エジプト記30章11-16節、マタイによる福音書17章22-27節 

説教:「主イエスの自由とユーモア」                  

鶴見教会牧師 高松牧人 

 

今日はマタイによる福音書の17章の最後のところを読みました。その頃、弟子たちは困惑していたのではないかと思われます。主イエスについて、この方はいったいどういう方なのだろうと思い、そのみこころと行かれる道をはかりかねていたのではないかと思います。この福音書の16章、17書と読み進めてきたのですが、そこに記されていた出来事をちょっと振り返ってみますと、天にも昇る気持ちになったり、地の底に突き落とされるような気持ちになったりしていたに違いないのです。ペトロは、弟子を代表して初めて主イエスに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表すことができました。それを主イエスは受け入れてくださったのですが、その後主イエスは初めてご自分が行こうされる道、つまり自らの苦難と死と復活について弟子たちにお話になりました。これを聞いたペトロは思わず主イエスをいさめるのですが、それに対して主イエスは、「サタン、引き下がれ」という激しい言葉をペトロに投げつけて、お叱りになりました。その意味がまだよく分からず、その衝撃が冷めやらぬ頃、主イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子を連れて高い山に登られます。その山の上で、三人は主イエスが光輝く姿に変容され、モーセとエリヤが現れて共に語り合っているという光景を目撃するのです。それはまさに天に登ったかのような夢のような出来事でした。ペトロはその光景をいつまでもそこに留めておきたいと願いました。けれども、それは一瞬のことで、輝く主イエスの姿は雲に覆われてしまいます。彼らはいつも通りの主イエスと共に山を下りるのですが、そこで待っていたのは、病に苦しむ人々とそれをどうすることもできない弟子たちの無力な姿でした。主イエスは、どうして自分たちは何もできなかったのかと問う弟子たちに「信仰が薄いからだ、もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、山を動かすこともできる」と言われのでした。 そんなとまどう弟子たちが集まっているところで、主イエスは再びご自身の苦難と死と復活の予告をされます。それが 22~23 節です。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する」。二度目の予告です。あの山上で光り輝いた主イエス、重病で苦しんでいた子どもをいやすことのできた主イエスなのに、また同じことを繰り返されるのです。弟子たちはここではもう何も聞き返してはいません。尋ねるのも怖かったのではないかと思います。けれども、非常に悲しんだとあります。そして、そのあとにマタイによる福音書だけが記録しているおもしろい出来事が24~27節に書かれています。 

 

カファルナウムはガリラヤ湖の北西岸の町であり、ペトロの家もそこにあり、主イエスのガリラヤ伝道の拠点になっていました。そこでのこと、ある日神殿税を集める人がペトロのところにやってきて言いました、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」。 神殿税はユダヤの人がエルサレム神殿のために納めることになっていたお金です。原文のギリシア語では2ドラクマと書いてあります。ドラクマはギリシアの貨幣単位です。この2ドラクマはイスラエルの伝統的な貨幣単位でいうと銀半シケルに相当します。今日、私たちは旧約聖書から出エジプト記30章11~16節を読みました。そこにこのことが規定されています。おそらく、主イエスが日頃から安息日のこととか、律法に定められている規定や神殿に対して批判的なことを言われたり、人々が習慣で行っていることを超越した生き方をしておられたりするのを見て、いったい主イエスは神殿税を払うつもりなのかどうなのかを尋ねたのでしょう。 

 

それに対して、ペトロは即座に「納めます」と答えています。ちゃんと納めていますよとムキになって答えたのかもしれません。その場はそれで済んだのです。ところが、 このやりとりを耳にしておられたのか、その後家に入ったとき、主イエスはペトロに尋ねて言われました。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか」(25節)。ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われました。「では、子供たちは 納めなくてよいわけだ」(26 節)。この世の王が自分の身内から税金や貢ぎ物を取り立てはしないように、神殿の主である神が、神の子である者から神殿に納めるお金を要求するだろうか。神の子が神殿税を納めなければならない、などということはない筈ではないかと言われるのです。 

 

この問答は、ユダヤ人のふだんの習慣として神殿税をちゃんと納めているかどうかという次元のことではなくて、もっと深い意味で、ペトロに大切なことを気づかせようとしておられるのです。「あなたは私のことを何者だというのか」と改めて問いかけておられるのです。ペトロは少し前に「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えたにも関わらず、そのことを普段の生活の中でまだしっかり捕らえていなかったのです。それで、主イエスはご自身が神のもとから来た者であることを、すなわち、神殿税を納める側ではなく、民の献げ物を受け取る側におられることを言い表しておられるのです。 「子供たちは納めなくてよいわけだ」。ここは原文どおりには「子供たちは自由である」と書いてあります。神の御子主イエスは、この世の一切の掟からも習慣からも自由なお方です。すでにこれまでも、主イエスは安息日において弟子たちが麦の穂を摘んで食べた行為を律法違反だと批判するファリサイ派の人々に対して、ダビデのことを例に挙げて反論され、「神殿よりも偉大なものがここにある」と言われました(12章6節)。 神の臨在の象徴である神殿は、神自ら人となって来られた主イエスの前にその意味を失ってしまうのです。主イエスこそ人々の礼拝と献げ物を受け取るべきお方なのです。 

 

ただしかし、主イエスは神の子としての自由を宣言された上で、神殿税を支払うことを拒否されるのではなく、支払うことを選ばれます。「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」(27節)と言っておられます。そもそも、主イエス・キリストは、神の子でしたが、一人の人間として、より具体的にはあの時あの場所で生きる一人のユダヤ人として、この世界にお生まれになりました。これは、本来何の制約も持たないはずの方が、制約を持った世界の中に入って来られたということです。神である方が一人の人として生きてくださったのです。そして、地上のさまざまな制約の中で、主イエスは神の子としての自由を振り回される方ではありませんでした。罪のない神の子でありながら、罪人の一人としてヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられ、父なる神の御旨に従って苦難から十字架の道を進んでいかれました。22~23 節で自ら予告されていたとおりです。主イエスは決して神の子の自由の特権を用いることなく、私たちの救いのために僕として仕える道を歩み抜かれました。最後の時が来て、人々の手に捕らえられた時も天使の軍団を呼び寄せることができたはずですが、助けを求めることはされず、十字架の上では、「神の子なら、自分を救ってみろ」との嘲りの声を浴びながら、十字架から降りようとはなさいませんでした。主イエスは自分を救うための奇跡は起こされませんでした。主イエスはそのような自由を行使されました。 

 

ところで、主イエスが「では、子供たちは納めなくてよいわけだ」と言われるとき、ご自分を神の子とされただけでなく、ご自分を信じ、ご自分に従って来る者たちも神の子として立てられました。ペトロやご自分の弟子たちをも、神の子とされた者の自由の中に招こうとしておられるのです。自由である、しかし彼らをつまずかせないようにしようという姿勢は、主イエス・キリストによって罪赦され、神の子とされた私たちもまた見倣うべきものです。 

 

私たちは、主イエス・キリストの十字架の死によって贖われ、罪赦され、神との和解が与えられた者として、もはや「・・・をしてはならない」とか「・・・をしなければならない」という律法の束縛から解放されました。いわんや、この世の迷信や習慣、もろもろのしがらみからも自由にされているのです。そのことをしっかりと心に刻みたいと思います。パウロは「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤの信徒への手紙5章1節)と書いています。再び神ならぬ神々の奴隷となってはならないのです、しかし、その自由は愛をもって互いに仕え合う自由であり、愛する人々の救いのためには労苦をいとわない自由なのです。 

 

パウロもまたそのような自由をもって生きた人でした。私たちは礼拝でしばらくの間コリントの信徒への手紙一を読んできましたが、そこではこの自由に生きようとするパウロの姿勢が随所に描かれていました。当時のコリントの教会では、偶像の神殿に供えられた後のお下がりの肉が町の市場で売られていましたが、それを食べてよいかどうかということでもめていました。パウロは、「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」(8章8節)と言っています。食べたから汚れるなどということはないのです。その原則を踏まえつつ、しかしその上でパウロは、「この自由が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」(8章9節)と注意しています。そしてさらに、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいならば、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(8章13節)とさえ言うのです。ここに、十字架の愛に裏打ちされた他者に仕える自由があります。 

 

宗教改革者マルティン・ルターは、『キリスト者の自由』という書物を書いていますが、その冒頭にかかげているキリスト者とは何かという命題は私たちが常に覚えていたいことです。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」。私たちは皆、このような自由へと召されているのです。 

 

さて、主イエスは自由な神の子として、しかし一人のユダヤ人として、私たち罪人の一人として、ここで神殿税を払われるのですが、そのお金の用意の仕方がとても愉快です。「湖に言って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」(27節)。ここで銀貨は4ドラクマに当たります。定められた神殿税は2ドラクマでしたから、二人分であり、ちょうど「わたしとあなたの分」となります。主イエスは元々漁師であったペトロに魚を獲りに行ってそれを売ってお金を作りなさいと言われたのだろうといった合理的解釈をする人もいます。けれども主イエスは神の子ならではの御業をなさったと読むべきだと思います。そこに主イエスの余裕とユーモアを感じ取ることができます。主イエスはこの奇跡を通して、ペトロに、あなたも神の子としての自由に生きなさい、ほら、必要なものは必ず与えられるという約束を与えられたのではなかったでしょうか。 

 

日常生活の中でさまざまなこの世の価値観や慣習に捕らわれ、人々からの評判や評価を気にして、神経質になったり苛立ったりしてしまう私たちです。また、自分の考え方の正しさを主張し、あるいは自分は信仰者なのだからと妙に頑なな自己主張をしがちな私たちです。けれども、そんな私たちに、主イエスは、わたしに従ってきなさい。肩肘を張らずに、神の子としての自由に生きてごらんと招いておられるのです。その自由をもって、隣人を愛し、仕える人になるようにと招いてくださっているのです。