今週の礼拝音声と礼拝順序

 

2026年6月7日の礼拝音声(当日礼拝後12時頃から)

 

2026年6月7日のYouTubeライブ配信(当日10時20分頃から)

 

 

2026年6月7日の礼拝説教ファイル  

 

過去の礼拝説教ファイル

  ※直近のものは、一番下にあります

 

2025年12月24日の「聖夜のバロック・キャロル」

YouTubeライブ配信(当日18時から)

 

 

●2026年6月7日(日) 

 

 

奏楽   

招詞  (ヨエル書3:1)

讃詠 546

信仰告白 (日本キリスト教会信仰の告白)

讃美歌 88 

聖書 詩編16篇1-11節      (旧約845頁)

使徒言行録13章26-43節  (新約239頁)

祈り              

讃美歌 287 

説教  「イエスを復活させた神」   牧師 高 松 牧 人

祈り   

讃美歌 332

聖餐式

讃美歌 202(着席のまま)

献金

主の祈

頌栄 543  

祝祷

報告

 

 

 

 ☆今週の祈りの課題「病気療養中の人たちを覚えて」

 

 

2026年6月7日の説教 

聖書:詩編16篇1-11節

使徒言行録13章26-43節

説教:「イエスを復活させた神」                 鶴見教会牧師 高松牧人

 

 今読んでいます使徒言行録13章は、大きく言えば使徒言行録の第二部、後半の始まりです。シリアのアンティオキアに生まれた異邦人たちも含めた教会が、聖霊のお告げを受けて、バルナバとパウロを外地への伝道に遣わすのです。彼らは、まずキプロス島に向かい、その後、小アジア半島、今で言えばトルコという国の南東部にあたりますが、その地方で福音を宣べ伝えます。パウロによる第一回伝道旅行が始まるのです。

 そして、今日は26節から読んでいただきましたが、ここはピシディアのアンティオキア(これは彼らが最初に出発したシリアのアンティオキアではなく、トルコの南海岸からタウロス山脈という険しい山岳地帯を超えてたどり着いたピシディアのアンティオキアという町です)、そこで安息日にユダヤ人たちの集まる会堂に入り、聖書朗読に続いて、促されるままにパウロが立ち上がって語った説教です。一回で語られた説教ですから途中で区切るのもおかしいのですが、とても長くて重要な説教ですので、前回は16~31節までを読み、今日は少し戻って26~41節までを読みました。この説教は使徒言行録が記録するパウロの最初の説教です。

 使徒言行録が記録する説教としては、私たちは既にぺンテコステの日に何事が起こったのかと怪しむ人々にペトロが語った説教を読み、また続いて神殿境内で語った説教を読みました。また、7章では最高法院に引き出された語ったステファノの説教を読みました。ペトロもステファノもそしてパウロも、聖霊の注ぎを受けて、イエス・キリスト

の福音を大胆に宣べ伝えたのです。彼らはそれぞれ個性あふれる説教者たちです、今日ここに初めて説教デビューしているパウロも、先の二人とはまた違うユニークな経歴と賜物を持った説教者です。けれども、三人の語る説教の構造は似たところがあります。

すなわち、旧約聖書に記された神の民の歴史を振り返りつつ、そこに神のご計画が貫かれていて、自分たちの父祖たちに語られた約束が成就して、ついにイエス・キリストが救い主として来てくださったのだと語るのです。

 大説教者パウロですが、人々の気を引く面白い話とかユニークな話をしたわけではありません。他の使徒たちと違う話を試みたわけでもありません。自分自身、不思議にも教会に招き入れられた者として、きわめて地味な形で、旧約聖書の言葉を引きながら、主イエス・キリストが私たちの救い主として来られたこと、主イエスの十字架と復活は、神が定めておられた救いのご計画であったことを語っているのです。

 

 さて、このパウロの語った最初の説教ですが、16~25節ではイスラエルの民に対する神の導きが簡潔に要約されていました。その中心に置かれているのはダビデ王です。

ダビデに与えられた約束は、その後ダビデ王朝の滅亡によって消え去ってしまったかと思われました。しかし、イスラエルの苦難の混乱の歴史を貫いて、神の慈しみと真実は変わることなく、神はダビデの子孫からイスラエルに救い主を送ってくださったのです。

それがイエス・キリストだと言うのです。これがパウロの説教の第一のポイントです。

 続く26~29節で、パウロは改めて「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中で神を畏れる人たち」と語りかけ、神が私たちに送られた救いの言葉、すなわちイエス・キリストのご生涯について語ります。神が送ってくださったこの救い主を、エルサレムに住む人々や指導者たちは認めず、救い主の到来を証ししてきた預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定め、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、ローマ総督ピラトに願い求め、イエスを十字架にかけて殺し、墓に葬ったのでした。彼らは、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を聞いてきたはずなのに、主イエスにおいて成就している神の導きと約束を理解することができませんでした。けれども、パウロは、罪のない主イエスを排斥し十字架につけて殺すというこの出来事もまた、預言者たちが語っていた言葉の実現だったのだと語るのです。ユダヤの指導者たちは、主イエスを十字架につけることで、主イエスについて書かれている神のご計画を自ら成し遂げることになったのです。これがパウロの説教の第二のポイントです。

 「しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」と30節は始まります。ここから37節にかけて、パウロは主イエスの十字架の死だけでなく、復活も旧約聖書で預言されていたことなのだと力強く語っていきます。復活された主イエスは、一緒にガリラヤからエルサレムに上って来た弟子たちに、幾日にもわたって姿を現され、ご自分が生きていることをお示しになりました。30~37節にかけては「神はイエスを復活させた」とか「神が復活させたこの方」という言い回しが繰り返し出て来ます。主イエスの死者の中からの復活は、神のご計画であり、神の約束であり、神の力ある御業だったのだということが語られています。

 パウロは、そのことが旧約聖書においてどのように預言されていたかを、3つの聖句を引用して述べていきます。最初に挙げられているのは詩編二篇の「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ」という御言葉です。詩編二篇は古来イスラエルの王の即位を祝う詩と言われているものです。イスラエルの王は神の祝福のもとに立てられ、時に神の子と呼ばれることがあったとしても、所詮人間としてその命は限りあるものです。けれども、神は主イエスを死者の中から復活させ、主イエスに今や天と地のすべてを支配する永遠の王としての権威をお与えになったのでした。パウロは、王の詩編の中に、もはや朽ち果てることのない救い主イエス・キリストの到来が約束されていたこと、それが神のご計画の内にあったことを聴き取っているのです。

 復活とはもはや朽ち果てることのないものに変えられることです。34節の「わたしは、ダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える」(これはイザヤ書55章3節の引用です)と35節の「あなたは、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしてはおかれない」(これは詩編16篇10節の引用です)、この二つの聖句は結びつけられて、主イエスの復活証言として当時の教会でよく用いられていたようです。ダビデは、神のご計画に仕えた偉大な名君でしたが、死んで過去の人となりました。しかし、神が復活させたイエスは、朽ち果てることがなかったということが強調されているのです。主イエスが復活されたのは、ダビデに与えられた約束が今あなたがたに与えられるためだったのだと言うのです。これがパウロの説教の第三のポイントです。

 

 このように神の民イスラエルの歴史から始めて、主イエス・キリストの死と復活が、すべて神の定められた救いのご計画の内にあったことを語ってきたパウロは、38~39節で自分の福音理解をはっきりと打ち出します。ここがパウロの説教の結論部分です。

「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。主イエス・キリストによる罪の赦しが告げ知らされ、この方を信じることによって、今やすべての人が、神による罪の赦しの恵みにあずかり、義とされる、それはイスラエルの民に与えられた神の導きの歴史の目的であり、ここに神の御心が成就しているのだというのです。

 パウロはペトロとは違って、ユダヤ人の中でもファリサイ派に属する人でした。彼にとって、生きることの中心はモーセの律法を細かいところまで完全に完璧に守る努力をすることでした。事実、彼はそのために人一倍努力してきましたし、「律法の義については非の打ちどころのない者」だと公言し、誇ることのできた人でした。けれども、それは彼を神に対しても人に対しても高慢にさせることでしかありませんでした。彼は、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んでくださったことと、神が御子を死者の中から復活させてくださったことを知ったとき、否、天からの光に打ち倒されてそれを知らされたとき、自分のそれまでの生き方がどんなに的外れであったかということ、人は律法の行いによっては神の前に義とされることはないことを悟らされたのです。私たちは、私たちのために呪いの木にかけられ、私たちの罪を贖ってくださった救い主によってのみ、神の前に義とされるのだということを示されたのでした。「信じる者は皆、この方、主イエス・キリストによって義とされるのです」。これこそパウロの経験した救いであり、彼が一人でも多くの人に何としても訴えたいことでした。

 神がイエス・キリストによって私たちにもたらしてくださった恵みは、歴史を貫いて約束され、預言されていたこととはいえ、それは律法の専門家であるパウロにとっても

思いがけないこと、信じがたいことでした。人間の知恵や願いから出たものではなく、

人の思いをはるかに超えた驚くべき神の御業でした。だから、この大いなる出来事にどうかつまずかないでほしい、とパウロは最後に預言者の言葉を引いて警告します。41節です。「見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を」。これはハバクク書1章5節の七十人訳というギリシア語訳からの引用です。元々、預言者ハバククは

イスラエルの民の罪に対する審きとして、カルデア人すなわちバビロンを神はあなたがたのところに送り、あなたがたを滅ぼすであろうと警告したのです。それは当時の人々にとって驚くべきことで、信じがたいことでした。その言葉を引いて、パウロは、神がイエス・キリストによって義とされるというこの驚くべき恵みにつまずかないように、この驚くべき救いの言葉を拒否しないようにと警告しているのです。実に厳しい言葉をもって、パウロは説教を締めくくりますが、そこには同胞であるユダヤ人と、神を畏れ神の言葉を求めて会堂に集まる人たちへの切実な訴えかけがありました。

 

 今日、私たちは旧約聖書から詩編16篇を読みました。その中の10節をパウロはこの説教の中で主イエスの復活を預言する言葉として引用していました。ところで、この詩の前半において、詩人は「主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません』」(2節)とうたいます。そして、「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命をささえる方。測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました」(5~6節)とうたっています。主なる神に生かされ、主なる神と共にあり、主なる神に安んじて将来をゆだねることのできる幸いがうたわれているのです。これこそまさに主イエス・キリストによって罪赦され、神の前に義とされた者の幸いです。主なる神はこのような恵みと幸いに私たちを招いてくださっていることを覚えたいものです。

 

 

  新型コロナウィルスへの対応の一環として、やむを得ず礼拝に出席できない方のために

新たにYouTubeによる主日礼拝のオンライン配信と今週の礼拝音声の公開を開始しました。

また、毎週の礼拝終了直後(12:30ごろまでに)速やかに音声ファイルをアップロードする予定です。  

※再生の途中で停止するなど、うまく再生できない場合には、音声ファイルをダウンロードしてから再生してください。

 

過去の礼拝音声

 

 

※音声ファイルの公開方法(参考情報)