2026年7月12日の礼拝音声(当日礼拝後12時頃から)
2026年7月12日のYouTubeライブ配信(当日10時20分頃から)
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2025年12月24日の「聖夜のバロック・キャロル」
YouTubeライブ配信(当日18時から)
●2026年7月19日(日)
奏楽
招詞 (詩編19:2-5)
讃詠 546
信仰告白 (使徒信条)
讃美歌 6
聖書 エレミヤ書8章8-13節 (旧約1191頁)
マタイによる福音書21章18-22節 (新約41頁)
祈 り
讃美歌 244
説教 「実を結ぶ生き方」 牧師 高 松 牧 人
祈 り
讃美歌 249
献金
主の祈
頌栄 544
祝祷
報告
☆今週の祈りの課題「信仰と奉仕を受け継ぐために」
2026 年7月19日の説教
聖書:エレミヤ書8章8-13節
マタイによる福音書21章18-22節
説教:「実を結ぶ生き方」 鶴見教会牧師 高松牧人
毎月第3の日曜日には、主にマタイによる福音書から少しずつ順番に御言葉を聞いて います。マタイによる福音書は全部で28章までありますが、この21章は、主イエスの 地上の生涯の最後の一週間が始まったところです。ろばの子に乗ってエルサレムの都に 入って来られた主イエスは、ただちに大勢の人々が礼拝に集ってきている神殿に行かれ、 そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒し 「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたというのです。宮清めと 言われる出来事が12~17節に記されていました。主イエスはその夜は都を出て、郊外 のベタニア村に行って休まれます。そして、翌日朝早くまたエルサレムの都に戻ってこ られるのです。ですから、今日読みました18~22節に記されている出来事は、受難週 の二日目、月曜日の朝の出来事ということになります。 今日の箇所には、主イエスが道端のいちじくの木をご覧になってなさったことと、そ れをめぐる弟子たちとの対話です。すぐ前にあった宮清めと同様、どうして主イエスは こんなことを突然なさったのか分からない。そして異様な出来事です。けれども、前日 の宮清めとの関連で読むと、その意味が浮かび上がってくるところです。これら一連の 主イエスの風変わりな行動は、いずれも旧約聖書に出て来る預言者たちが時折神から命 じられて行なったいわゆる象徴行為に属するものだということができるでしょう。エレ ミヤ書やエゼキエル書の中によく出てきますが、これから起こるであろう神の裁きや救 いの御心を、周りの人々がハッとするような行動で暗示する預言者の行為です。 すなわち、神殿の境内で売り買いしていた人々を追い出し、商売人たちの台をひっく り返したことも、道端のいちじくの木を枯らせてしまわれたことも、アッと驚く出来事 であったとしても、そのこと自体、何か世の中を変化させるようなことではありません でした。エルサレム神殿の境内の角隅で起こったことは、神殿警備兵が出動した様子も なく、主イエスが去られた後はまた普段通りの賑わいが戻ったに違いありません。道端 の一本のいちじくの木が枯れたことは、側にいた主イエスの弟子たち以外には誰も気づ かなかったようなことでした。けれども、これらの主イエスの振舞いには、エルサレム の都に入られた主御自身の深い嘆きと怒りと悲しみが込められており、これらの行為を 通して、主イエスは滅びに値するエルサレムの都と神の民イスラエルに対する神の裁き を告げておられるのです。これらの言動に込められた主イエスのみこころを聴き取って いきたいと思います。 いちじくはぶどうと並ぶイスラエルの代表的な果実です。したがって、これらは旧約 1 時代からしばしば神の民イスラエルを表す比喩として用いられてきました。今日私たち が旧約聖書から読んだエレミヤ書8章13節にも、「わたしは彼らを集めようとしたが、 と主は言われる。ぶどうの木にぶどうはなく、いちじくの木にいちじくはない。葉はし おれ、わたしが与えたものは、彼らから失われていた」とあります。そして、主イエス が実をつけていないいちじくの木を枯れさせた出来事は、マルコによる福音書にも出て きますが、ルカによる福音書ではそれに代わって、こんな一つのたとえ話が記されてい ます。13章6~9節です。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探し に来たが見つからなかった。そこで園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの 木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地を ふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてくださ い。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれは、来年は実がなるかもしれま せん。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」 これらの言葉やたとえ話には明らかに共通点があります。実らないいちじくの木は、 神に植えられ育てられ生かされてきたのに、神に喜ばれる生き方をしていない神の民イ スラエルの姿を表しています。礼拝も讃美も祈りも形ばかりのものになっている姿です。 主イエスがエルサレムの都の賑わう神殿に御覧になったのもそのような姿でした。今、 主イエスが神の民に求めておられる実は、悔い改めて神のもとに立ち帰ることです。そ のような真実な礼拝と祈りを主イエスは求めておられるのです。神に選ばれ、召された 者が、神にお応えすることなく、その使命を忘れているのなら、そこには彼らの存在理 由はありません。抜き取られ、切り捨てられるほかはないのです。 「今から後いつまでも、お前には実がならないように」―主イエスがそう言われると、 たちまち、いちじくの木は枯れてしまいました。その様子を見ていた弟子たちは、たい そう驚いて、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と尋ねています。弟子たちの 驚きの中には、主イエスが一言ですべてを思うままにできる力、奇跡を起こす力を自分 たちにも分けていただきたいという気持ちがあったのかもしれません。あるいは、前日 の宮清めから引き続いて、主イエスが突如なされた驚くべき振舞いに、いよいよ主イエ スがメシアとしての力を発揮され、エルサレムの都で悪しき者たちを打ち倒し、メシア の国をお建てになるのではないかという予感と期待があったのかもしれません。 しかし、主イエスは弟子たちの質問には直接お答えにはならず、むしろ弟子たちの信 仰と祈りについて勧めをしておられます。それが 21~22 節です。「はっきり言ってお く。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことが できるばかりではなく、この山に向かって、『立ち上がって、海に飛び込め』と言って も、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」。 このこと は、信仰と祈りにおいても、否むしろそういうところにおいてこそ、葉だけが茂って実 がないような、見せかけと高ぶりが起こることを弟子たちに警告し、真に実を結ぶ信仰、 2 真に神に聞き上げられる祈りを勧めておられるのです。 私たちの信仰生活とは祈りの生活です。どんな信仰をもって生きているかは、日々ど んな祈りをしているかということと密接に関わっています。祈りが形だけのものか、そ れとも真実なものか、私たちには必ずしも見分けられないところがありますが、そのこ とで思い起こす主イエスのなさったたとえ話があります。ルカによる福音書18章9~ 14 節にあるものです。神殿で祈る二人の人、一人はファリサイ派の人、もう一人は徴 税人の祈りです。ファリサイ派の人は立ってこう祈るのです。「神様、わたしはほかの 人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のよ うな者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げ ています」。ところが、徴税人は遠く離れた所で、目を天に上げようもせず、胸を打ち ながら祈るのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。 主イエスは、義とされ て家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない、と言われます。 ファリサイ派の人の堂々たる祈りは人に聞かせる祈りであって、そこには何の悔い改め も心からの感謝もなかったのに対して、徴税人の祈りには、神へのひたすらな悔い改め があり、ありのまますべてを投げ出す祈りであった。そのような祈りこそ神は聞き上げ てくださるのだと主イエスは語られたのです。 主イエスは私たちに信仰の実を求めておられます。けれども、その実とは、私たちが 自分を誇らしく思う事柄とか、数え上げる業績とか善行の類ではありません。そういっ たものは、神からご覧になるならば、せいぜい葉の茂りにすぎないのです。私たちが信 仰において結ぶ実とは、主なる神との交わりの中で、聖霊によって生み出される謙虚さ であり、愛であり、神のご意志に服していく勇気です。 主イエスは弟子たちに語って言われます。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰 を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりではなく、 この山に向かって、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(21~22 節)。信じて疑わず、祈り 求めるならば、山をも動かすことができる、どんな困難も解決できると主イエスは言わ れます。これもあまりにも極端な言葉に聞こえます。けれども、この御言葉の関わりで 思い起こしたいのは、重い病に苦しむ息子を抱えて、主イエスのところに助けを求めて やってきた一人の父親の話です。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けく ださい」と願い出る父親に、主イエスは「『できれば』と言うか。信じる者には何でも できる」と言われます。それに対して、その子の父親はすぐに叫んで言います、「信じ ます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコによる福音書9章22~24節)。 思わず叫んだ言葉でしょうが、実に正直な応答です。信じますと答え、同時に信じ切 ることのできない自分自身であることを言い表しています。神へのひたすらな信仰と祈 りとは、自分自身の不信仰の告白を伴います。自分は神のことが分かっているとか、こ 3 れだけの力があると誇るところでは、神との生きた交わりはありません。私たちにとっ て大切なことは、自分がどれくらいのことができるかできないかではなく、本当に山が 動くかどうか試してみるというのでもなく、神のご意志と力へのひたすらな信頼と服従 です。神が開き示してくださることを待ち望むことです。 神の御心をひたすら祈り求めるべきことを、主イエスは弟子たちにお勧めになってい ますが、ここで私たちはこのようにお語りになっている主イエスご自身が、今地上での 最後の一週間を過ごしておられ、このときどんなに激しい祈りの戦いをしておられたか ということを忘れるわけにはいきません。その祈りの激しさは、この3日後の夜になさ れるゲツセマネの祈りにおいて頂点に達します。あそこで主イエスは、「父よ、できる ことなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりで はなく、御心のままに」(マタイによる福音書26章39節)と徹底して父なる神のみこ ころに服する道を選び取られます。すなわち、実らないいちじくを枯らすことのできる お方が、そのような裁きを受けるべきイスラエルの罪を、ご自身の身において受けとめ ていかれるのです。いちじくの木を枯らせてしまうなんて、主イエスも何とわがままで 身勝手なことをなさるのかと感じる私たちですが、主イエスは実際の人間について呪い をおかけになることはありませんでした。しかし、反対に、主イエスはいわば自分に呪 いをかけ、自分が神の怒りと裁きを一身に引き受けて滅びることによって、私たちを生 かす道を選び取られたのです。山をも動かす祈りをなしうるお方が、苦しみの杯を取り 去られることを願いつつ、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈って、 その杯を受け取られたのです。それが十字架の道でした。十字架の時は目前に迫ってい ました。このようにして、主イエスは滅びるほかなかった者たちに罪の赦しを与え、私 たちを生かし、私たちを神の民として再び集めてくださったのです。ここに主イエスの 私たちへの激しい愛が現れているのです。 私たちは、主イエス・キリストの招きの中で、主に喜ばれるよい実を結んでいく者た ちでありたいと思います。それは、先ほどの徴税人の祈り、あるいは主イエスにすがる 父親の祈りを、私たちの祈りとしていくことです。主イエス・キリストとの豊かな交わ りに生きていくことです。今日は実のならないいちじくの木が枯れた話から始まりまし たが、最後に、主イエスが豊かな実を結ぶぶどうの木のたとえを私たちに語ってくださ った、あの有名な御言葉を聴いておきたいと思います。「わたしはぶどうの木、あなた がたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれ ば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからであ る」(ヨハネによる福音書15章5節)と主イエスは言われます。「わたしの話した言葉 によって、あなたがたは既に清くなっている」(15章3節)と言われ、あなたも豊かに 実を結ぶことができるのだと約束されているのです。
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