今週の礼拝音声と礼拝順序

2025年10月5日の礼拝音声(当日礼拝後12時頃から)

 

2025年10月5日のYouTubeライブ配信(当日10時20分頃から)

通信状況により音声が不安定となることがあります。

礼拝後に公開する 「礼拝音声」の方もご活用ください 

 

2025年10月5日の礼拝説教ファイル

 

 

過去の礼拝説教ファイル

  ※直近のものは、一番下にあります

 

●10月5日(日) 主 日 礼 拝(教会建設記念礼拝)

 

 

 奏楽   

招詞  (詩編96:1-3)

讃詠 546

信仰告白 (日本キリスト教会信仰の告白)

讃美歌 6 

聖書 イザヤ書40章9-11節   (旧約1124頁)

使徒言行録5章12-32節   (新約221頁)

祈り                

讃美歌 235 

説教  「命の言葉を告げなさい」   牧師 高 松 牧 人

祈り   

讃美歌 502

聖餐式

讃美歌 204(着席のまま)

献金

主の祈

頌栄 541  

祝祷

報告

 

 

☆今週の祈りの課題「第75回日本キリスト教会大会のために」

 

 

2025年10月5日の説教

聖書:イザヤ書40章9-11節

使徒言行録5章12-32節

説教:「命の言葉を告げなさい」                 鶴見教会牧師 高松牧人

 

使徒言行録によって、ペンテコステの日に誕生した教会の、その後間もない宣教活動の様子を読んでいます。3章では、ペトロとヨハネがエルサレム神殿の「美しい門」のところで物乞いをしていた生まれつき足の不自由な人を立ち上がらせたこと、そのことで人々に説教したことが書かれていました。ところが4章では、その説教に苛立った神殿関係者が二人を捕らえて牢にいれ、翌日ユダヤの議会関係者が集まって二人を取り調べたことが書かれていました。二人は違法なことをしたわけでも語ったわけでもなかったのですが、議会関係者たちは「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないよう」二人を脅した上で釈放したのでした。しかし、使徒たちは語ることをやめませんでした。教会の人々は「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるように」(29節)と心を合わせて祈ったのでした。

今日読みました5章12節以下では、聖霊に満たされ大胆に御言葉を語り続ける使徒たちとそれを聞く町の人々の様子が記され、17節以下では再び神殿関係者が使徒たちを逮捕し、ユダヤの最高法院は彼らを取り調べようとしたことが書かれています。4章に書かれていたのと同じようなことがまた繰り返されますが、今度はペトロとヨハネだけでなく、使徒たち全員が捕らえられます。迫害は前にも増していっそう危険なものとなってきました。

 

さて、前回神殿関係者たちがペトロとヨハネを捕まえた理由は、二人が主イエスの復活を宣べ伝えていたからでしたが、今回は17節を見ると「ねたみに燃えて」とあります。正当な理由ではなく感情的なものです。ガリラヤから出て来た無学なただの人と見える使徒たちのもとで驚くべき力強い出来事が次々と起こっていたからでした。

 12~17節には、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業が民衆の間で行われたこと、一同は心を一つにして集まっていたこと、そして、人々は病人や汚れた霊に悩まされている人々を使徒たちのもとに連れて来て、いやしてもらっていたことなどが書かれています。それはさながら、福音書の最初に描かれていましたように、主イエスが力強い宣教を始められ、多くの人々が主イエスの教えを聞くために後を追い、多くの病人が主イエスにいやしていただいた、あのガリラヤの春と呼ばれる時期の光景を思い起こさせるものでした。

 ところで、この中で13節と14節の文章は、ちょっとひっかかりを覚えるところがあるかもしれません。「ほかの者はだれ一人、あえて仲間に加わろうとはしなかった。しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった」と書かれているからです。矛盾することが並んでいるように思えます。しかし、ここにはかえってその頃の生き生きとして引き締まった教会の様子が伺えます。まだ信じていない人たちには、確かに容易に入っていくことができないと思わせるものがあったのです。たとえば、すぐ前には、土地を売ってその代金を教会に捧げたのに、それを売却額の全部と偽って捧げたために神の怒りを受けて死んでしまったアナニアとサフィラ夫妻のことが記されていて、11節には「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」とありました。信じて教会に加わることは、神との深い交わりに入ることで、そこでは神の怒りに触れることもあるのだということを多くの人々は感じたことでしょう。うっかり近づくのは危険だ、触らぬ神にたたりなしだ、と思った人も、教会の敷居は自分にはちょっと高いなと感じた人もいたのです。けれども、人々は教会を尊敬や称賛の目で見ていて、そうした恐れや敷居を乗り越えて、教会に集まる人々が増えていったと書かれているのです。

明治時代の初め、宣教師たちによる日本宣教が始まった頃も、キリスト者たちは世間から不信の目を向けられ、ののしられ、嫌われながらも、同時に一目置かれ、尊敬され、教会に集う人々は増えていったのです。イエス・キリストの十字架と復活を語る福音にはつまずきがあります。しかし、その福音を曲げることなく、ただ世間の人々に気に入られようとおもねるのではなく、教会が教会らしく歩もうとするときに、そこに加わろうとする新しい人たちが、聖霊の導きによって起こされてきたのです。

 

17節以下に、使徒たちの逮捕、拘留、尋問の様子が記されています。しかし、こんどは最初の時とは違って、たいへん不思議なことが起こります。「夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい』と言った。これを聞いた使徒たちは、夜明けごろ境内に入って教え始めた」(19~21節a)のです。

いったい何が起こったのでしょうか。神殿関係者か議会の内部にもすでに使徒たちの隠れた支持者がいて、彼らが使徒たちをひそかに助け出したのだと想像する人もいます。もしかしたらそうかもしれません。しかし、聖書が何も言っていないことを、私たちが自分たちの今の常識にあてはめて勝手に推測することはよくありません。何があったのかは分かりませんし、本当に不思議なことですが、たとえば昔、追い詰められたイスラエルの前で海の水が分かれて道が開かれたように、人の思いを超えた出来事が起こされた、神が救いの御手を伸べてくださった、と言うほかありません。

主なる神さまは、使徒たちと言う選びの器を徹底的に守り、お用いになります。選びの器がその選びにふさわしく働くことができるように、どこまでも追い求められます。たとえ、預言者ヨナのように本人が逃げ出したとしても、神は彼を呼び戻し、なすべき使命へと連れ戻されます。ここで、使徒たちは公の牢の中に閉じ込められていましたが、神はその扉を開いて、彼らが立つべき場所へと向かわせられたのです。

 牢の中にいた使徒たちが出て来ることができたということは、単なる釈放ではありません。これで重荷が無くなり、苦労が無くなり、楽になったというのではありません。

彼らは神からゆだねられた働きを続けるために解放されたのです。彼らは神殿の境内に立ち、そこで命の言葉を残らず告げるようにと遣わされたのです。神殿の中は危険だから、もっと安全な場所に連れて行ってもらったのではありません。神殿関係者も議会関係者も監視している今やいっそう危険になった場所に立って、「命の言葉を残らず告げなさい」と命じられたのです。それが神のご計画であり、みこころでした。

 そのようにして立たされる使徒たちを、しっかりと支えたものは、彼らに授けられた「命の言葉」です。自分たちが語るようにと託されているものによって、彼らは担われているのです。主イエス・キリストによって、主のお送りくださった聖霊によって彼らは生かされ、守られ、立たせられていたのです。

 

 一方、そんなことになっているとは知らない大祭司とその仲間たちは、議会を招集し、下役たちに彼らを連れて来るように命じました。ところが、彼らが戻ってきて報告して言うのです。「牢にはしっかりと鍵がかかっていたうえに、戸の前には番兵が立っていました。ところが、開けてみると、中にはだれもいませんでした」。神殿守衛長と祭司長たちが戸惑っていると、こんどは「ご覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」という報告が入ります。彼らは使徒たちが逃げていったのではないことに安心すると同時に一層腹を立てますが、使徒たちを手荒に扱ったら、民衆の反発を買い、石を投げつけられることになるかも知れず、慎重に使徒たちを連れてくるのです。使徒たちは、もしその気になれば、民衆を味方につけて抵抗することもできたでしょうが、とても落ち着いて冷静な行動をしています。捕らえられた者たちが堂々としていて、捕らえた側の指導者たちが慌てふためき、戦々恐々としていることが分かります。使徒たちは自分たちの知恵と力で助かろうとしていたのではなく、何も持たない者として、ただ神の授けてくださった命の言葉に依り頼んで立っていたのです。

 さて、大祭司がペトロたちに尋問して、彼らを責めたのは二つの点です。まず「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに、お前たちはエルサレム中に自分の教えを広めている」ということです。もう一つは、「あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」ということです。ユダヤ議会が主イエスをローマ総督ピラトに引き渡し、十字架につけるように要求したことの報復を、使徒たちは民衆を扇動して企てているのだ、と彼らは思ったのです。ペトロは主イエスを十字架につけたユダヤの指導者や人々の罪を事実としてはっきり語りましたが、それは彼らを糾弾し、復讐するためではなく、イスラエルを悔い改めに導き、彼らもまたイエス・キリストによる罪の赦しにあずかることができるようにするためだったのです。

 ペトロとヨハネは、最初にイエスの名によって語るなと脅された時も、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(4章19-20節)と答えましたが、今回もペトロとほかの使徒たちは以前と同様はっきりと答えました。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(29節)。これが、生まれたばかりの教会が最初に試練と迫害にさらされる中で示したとてもシンプルな、しかしきっぱりとした信仰の姿勢です。いつの時代も信仰に生きるとは、この単純な事柄をたえず選び取っていくことに他なりません。

 最後に、ペトロたちが神から託され、人々に告げなさいと言われた命の言葉、民衆に語り続けた命の言葉が、最高法院に集うユダヤの指導者たちにも告げられました。その骨子が30節以下に記されています。「わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。わたしたちはこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証しておられます」(30~32節)。

 

 鶴見教会は今日、教会建設91周年記念日を迎えています。独立自治の教会となって

91年ですが、実は、鶴見で開拓伝道の礼拝がはじまったのはその8年前ですから伝道開始から数えると99年となります。日本社会が大きく変化してきたこの一世紀、教会は一貫して、私たちのために十字架にかかり復活された主イエス・キリストによる罪の赦しと新しい命という約束の言葉に担われ、この命の言葉を語り続けてこの地に立ってきました。これからも、激しく移り変わっていく時代の中で、私たちは時代の荒波にもまれながらも、この変わることのない命の言葉を、私たちを真に生かす命の言葉として、私たちの喜びと希望の言葉として、宣べ伝え続けていきたいと思います。

 

 

(祈り)教会の頭である私たちの救い主イエス・キリストの父なる神さま。私どもの教会の建設記念日に、歩み始めたばかりの教会が、あなたから託された命の言葉を大胆に語り続けたことを聞きました。その命の言葉によって、私どもの教会もこの地に生まれ、今日まで歩み続けてきました。教会につながって共に生きることのできる幸いを覚えて感謝いたします。あなたに逆らうこの世は、さまざまな甘い言葉と脅しによって私たちを揺さぶり、迷わせますが、どうか私たちの導き手であり救い主である復活の主を仰ぎ、あなたの招きの御声に聞き従い、終りの日まであなたのくださる命の道を歩みつづける者たちとならせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 

 

  新型コロナウィルスへの対応の一環として、やむを得ず礼拝に出席できない方のために

新たにYouTubeによる主日礼拝のオンライン配信と今週の礼拝音声の公開を開始しました。

また、毎週の礼拝終了直後(12:30ごろまでに)速やかに音声ファイルをアップロードする予定です。  

※再生の途中で停止するなど、うまく再生できない場合には、音声ファイルをダウンロードしてから再生してください。

 

過去の礼拝音声

 

 

※音声ファイルの公開方法(参考情報)