2025年8月17日の礼拝音声(当日礼拝後12時頃から)
2025年8月17日のYouTubeライブ配信(当日10時20分頃から)
通信状況により音声が不安定となることがあります。
礼拝後に公開する 「礼拝音声」の方もご活用ください
※直近のものは、一番下にあります
●8月17日(日) 主日礼拝
奏楽
招詞 (エレミヤ書17:7-8)
讃詠 546
信仰告白 (使徒信条)
讃美歌 87B
聖書 詩編130篇1-8節 (旧約973頁)
マタイによる福音書18章21-35節 (新約35頁)
祈り
讃美歌 238
説教 「ゆるし合うために」牧師 高 松 牧 人
祈り
讃美歌 332
献金
主の祈
頌栄 539
祝祷
報告
☆今週の祈りの課題「和解と平和の働き人となるために」
2025年8月17日の説教
聖書:詩編130篇1-8節
マタイによる福音書18章21-35節
説教:「ゆるし合うために」鶴見教会牧師 高松牧人
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。ペトロは主イエスに尋ねました。マタイによる福音書18章は、弟子たちが主イエスに、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と質問したところから始まっていました。その問いに対して、主イエスは、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われ、続いて、小さい者の一人をつまずませてはならない、小さな者を一人でも軽んじてはならないと語られ、さらにまた、兄弟があなたに対して罪を犯した場合はどうしたらよいかということを教え て来られました。
その流れを受けて、ペトロが再び口を開いて尋ねているのです。「何回赦すべきでしょうか」。当時、ユダヤ教の世界では、誰かが自分に対して罪を犯した場合に、3回までは赦してやりなさいと教えられていたようです。日本にも「仏の顔も三度」という諺があります。3回までは赦してやるけれど、4回となるとさすがに限度を超えるということでしょうか。ただ、ペトロはそんなこの世の常識的な線を越えて、「七回までですか」と主イエスに問いかけました。そのくらい言えば、主イエスも褒めてくださるのではないかと考えたのかもしれません。
ところが、それに対して主イエスはびっくりするような答えをされました。「あなたに言っておく。七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」。七の七十倍とは490回となりますが、7も70も完全数で多くを表す数字です。つまり、490回数えて491回目からは復讐してよいというのではなく、こんなにひどい目にあった、これだけ我慢してやったと指折り数えるのをやめなさいということです。自分が赦した回数を指折り数えているのは、本当に赦していることにならないばかりか、かえって心の中にその人に対する怒りと憎しみを積み上げていることにほかなりません。
兄弟が今まで犯した罪を忘れ、その兄弟を赦してやったのだということも忘れるほどに、心から相手を赦し受け入れるということは、私たちにとって何と難しいことでしょうか。私たちは誰しもそこで愛の限界に突き当たります。しかし、そこで、そんなことができるかと居直るのではなく、赦しと愛に生き得ない人間として、赦されない悩みや赦し得ない苦しみを抱えて生きる者として、それでもそんな私たちに主イエスがお語りになった一つのたとえ話を聞いていきたいと思います。
王と多額の借金をもっている家来、これは神と私たちのことを表しています。ここで
私たち人間の罪が借金にたとえられていることは注目すべきことです。主イエスが教えてくださったあの主の祈りにおいても、マタイによる福音書6章12節では、私たちの罪が負い目とか負債という言葉で言い表されています。負債は借金ですから、返さなければなりません。うやむやに放置してはいけません。放っておくといよいよ膨らんでどうしようもなくなります。罪とは神と隣人に対する負債です。
このたとえ話で家来は1万タラントン借金していたとあります。現在のお金でどのくらいになるのでしょうか。今日の譬えの後半には100デナリオンの借金というのも出てきます。このタラントンとデナリオンとの関係を、新共同訳聖書の巻末に付いている通貨換算表で調べると1タラントンは6000デナリオンということです。すると、1万タラントンとは6000万デナリオンになります。そして、1デナリオンとは当時の成人労働者の一日分の給料に相当するということですから、たとえば仮に一日1万円で計算すると、1万タラントンとは6000億円、一方100デナリオンは100万円となります。ともかく1万タラントンとは私たちにはちょっと想像できない桁外れの金額です。
主イエスのこの譬えは、極端な数字を挙げることによって、私たちが神と隣人の前にどんなに大きな罪を負っているか、それは計算することも取引することもできないほどのものであることを表しています。この家来は「どうか待ってください。きっと全部お返しします」としきりに願ったとありますが、およそ一生かかっても、たとえわが身と妻子と持ち物を全部売り払ったとしても、返済できず償い得ないものであることは明らかです。私たち人間の罪は、自分が少しばかり努力し、心を入れ替えて精進すれば何とかなるという程度のものではありません。神ご自身が私たちを憐れんでくださり、神ご自身が関わって処理してくださらなければ、どうしようもないものなのです。
ところが、王はひれ伏してしきりに願うこの家来を憐れに思って、彼を赦し、その借金をすべて帳消しにしてやったというのです。無条件にいっさいを赦したのです。借金の額も桁外れなら、王の判断と処置も常識外れです。けれども、主なる神が主イエス・キリストによって私たちの罪を赦すと言われたその赦しは、このように無条件で徹底的で並外れたものでした。「憐れに思って」と訳されているギリシア語は、福音書の中で神やキリストの心を表すところに何度か出て来る単語ですが、「はらわたが揺り動かされる」「引き裂かれる」という言葉です。
この王の決断こそ、神が独子イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、御子を十字架につけるほどに私たちに関わってくださった罪の赦しの御業を指し示しています。
私たちが、自らの罪の大きさも重さもよく分かっていない中で、神は人となって私たちのところに来てくださり、私たちに代わって十字架を負ってくださったのです。パウロは書いています、「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマの信徒への手紙5章8節)。
そこにあるのは全く一方的で無条件の赦しです。じっと我慢して、いつか耐えきれなくなって爆発し、憎しみに裏返ってしまう人間の不安定な憐れみや愛ではなく、途方もなく大きく豊かで強靭な神の愛です。この神の憐れみと愛に受け入れられていることを知る者こそキリスト者です。私たちは、現実の日々の中で、赦されない悩みや赦し得ない苦しみを抱えつつも、この大きな恵みの事実の中に招かれているのです。
ところで、ここまではまだたとえ話の前半です。実は、このたとえ話の特徴は、後半の法外な借金をすべて赦された家来の行動とその結果にあります。とてつもない借金を帳消しにしてもらった家来は、しかしその帰り道で、少しばかりのお金を貸していた仲間に出会うと、「借金を返せ」と迫ったのです。その仲間が、彼がしたのと同じようにひれ伏して「どうか待ってくれ、返すから」としきりに頼んだのに、彼は承知せず、仲間を赦さなかったというのです。その借金は100デナリオン、先ほどの換算では100万円ほど、それならば、少し待ってもらえたら、一所懸命働き、いろいろやり繰りして、何とか返済可能な額です。
これまた極端な話です。貸したお金を返してくれと要求するのは正当なことですが、
もともと巨額の借金に押しつぶされそうになっていた自分が、ただ主人の憐れみによって赦されたことを知るとき、彼が自分の要求を突きつけ、情け容赦なく、わめいている姿はあまりにこっけいです。
けれども、私たちはこの家来のことを笑えるでしょうか。私たちが赦せないと思い、こんなことを放置してよいのかと言うとき、そこには自分なりの正義の主張があります。なめられてはいけない、これ以上赦していたら示しがつかない、秩序がくずれる、しかし、そこで振り回す正義の主張や要求は、果たしてすべてをご存知の神のご支配と大きな救いの御業の前で、どれほどの意味を持つのでしょうか。
今日の世界を考えても同じです。私たちの世界は正当な権利を主張し合う中でいがみあっています。それぞれに正当な理由があるのです。それぞれの言い分にはそれなりの筋と理屈があります。しかしかみ合わないのです。そして、それぞれが正当な理由をかかげて戦争をするのです。正義をかかげ、平和や秩序の回復をかかげて殺し合うのです。
どこかおかしいのですが、自分の正当性の枠組みにとらわれて抜け出せないのです。けれども、このたとえ話で主イエスはそこから抜けだす鍵を私たちに示してくださっています。正義を主張しながら罪に堕ちていく私たちと世界の現実に、主イエスは自ら率先して突破口を開いてくださったのです。それが主イエス・キリストの十字架でした。
今日のたとえ話の結末はハッピーエンドではなく、あまりにも哀れなものです。せっかくの王の憐れみと赦しをいただき損ねた家来の悲劇の物語です。しかし、この愚かで情けない悲劇を繰り返してはなりません。だから、主イエス・キリストは私たちに祈りを教えてくださったとき、こう祈りなさいと言われたのでした。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。実際に被害を被ったとき、敵意や憎しみの渦中にあっては、口にすることの難しい祈りかもしれません。しかし、こう祈れと主イエスは言われます。赦しに生きるとは、ただ我慢することではありません。自らの罪を深く知らされながら、主イエス・キリストの憐れみと愛にすがって、私たちが変えられていくこと、新しい生き方へと踏み出していくことです。自らの正当性を振りかざして争い、傷つけあうこの不真実な世界の中で、どうか不真実にまみれた私を、主イエス・キリストの赦しによって生かしてください。そして、罪赦された者としてふさわしく生きる愛と力を与えてください、と祈りつつ歩むことにほかなりません。
新型コロナウィルスへの対応の一環として、やむを得ず礼拝に出席できない方のために
新たにYouTubeによる主日礼拝のオンライン配信と今週の礼拝音声の公開を開始しました。
また、毎週の礼拝終了直後(12:30ごろまでに)速やかに音声ファイルをアップロードする予定です。
※再生の途中で停止するなど、うまく再生できない場合には、音声ファイルをダウンロードしてから再生してください。
※音声ファイルの公開方法(参考情報)