今週の礼拝音声と礼拝順序

 

2026年6月14日の礼拝音声(当日礼拝後12時頃から)

 

2026年6月14日のYouTubeライブ配信(当日10時20分頃から)

 

 

2026年6月14日の礼拝説教ファイル  

 

過去の礼拝説教ファイル

  ※直近のものは、一番下にあります

 

2025年12月24日の「聖夜のバロック・キャロル」

YouTubeライブ配信(当日18時から)

 

 

●2026年6月14日(日) 

 

 

奏楽   

招詞  (ヨエル書3:1)

讃詠 546

信仰告白 (使徒信条)

讃美歌 90

聖書 イザヤ書49章1-6節    (旧約1142頁)

使徒言行録13章42-52節  (新約240頁)

祈  り             

讃美歌 225

説教  「永遠の命を得るように」   牧師 高 松 牧 人

祈  り  

讃美歌 502

献金     

主の祈

頌栄 543

祝祷

報告

 

 ☆今週の祈りの課題「特別伝道礼拝のために」

 

 

 

 2026年6月14日の説教 

聖書:イザヤ書49章1-6節

使徒言行録13章42-52節

説教:「永遠の命を得るように」                 鶴見教会牧師 高松牧人

 

 私たちは今、使徒言行録13章において、パウロとバルナバによるいわゆる第一回伝道旅行の記事を読んでいます。シリアのアンティオキア教会から送り出された二人は、

キプロス島に渡って全島をめぐって宣教をした後、小アジア半島、今のトルコに行き、その内陸部にあるピシディアのアンティオキアという町で宣教活動をします。その町のユダヤ人の会堂で安息日にパウロが語った説教が16~41節に記されていました。使徒言行録が初めて紹介しているパウロの説教です。旧約聖書に記された父祖たちの歴史から説き起こして、イエス・キリストの十字架と復活を告げ知らせる説教です。パウロの説教の結論は、38~39節にはっきりと記されていました。「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は、この方によって義とされるのです」。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって神の前に義とされ、罪を赦され、救われるのだというパウロらしいメッセージが明確に示されています。今日私たちが読んだ箇所は、その説教が語られた後の、ピシディアのアンティオキアの会堂と町の反応です。

 

 パウロが語った御言葉に対して、それを聞いた人々の反応はすばらしいものでした。

42節「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」というのです。同じことを話してくれるようにとは、そっくりそのまま同じ話をしてくれということではなく、あなたが今日語ってくれたイエス・キリストの福音を今度もまた聞かせてほしいというのです。教会は今に至るまで何をしているかというと、毎週の日曜日の礼拝で同じ話を繰り返しているのです。それは聖書に記されたイエス・キリストの福音です。また43節には「集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた」とあります。集会後、パウロやバルナバに離れがたくついて来た人々がいたのです。二人も座り込んで、もしかすると食事まで一緒にしながら語り合ったのです。説教が語られたから、それでもうおしまいというのではなく、

告げられた恵みの言葉をめぐって、彼らは言葉を交わし、しみじみと語り合うのです。

イエス・キリストという方について、そしてその恵みによって生きるとはどういうことかを確認するのです。パウロとバルナバは、彼らに「神の恵みの下に生き続けるように勧めた」とあります。御言葉が一人一人の魂に届き、一人一人の生活に浸み込んでいくように勧めるのです。まさに牧会的対話が行われたのです。

 来週、私たちは伝道のための特別礼拝をします。そこで守られる礼拝が、初めて招かれる人たちにとって、また今み言葉を尋ね求めている人たちにとって、ここに主なる神が共にいますということを悟ることができるような礼拝となることを、そして、来週もまた同じことを話してほしい、来週もまたこの福音を聞きたいと言われるような説教を語ることができるように、そのためのよい備えができるようにと願わずにおれません。また、来週の礼拝後には、共に与えられた信仰の恵みについて語り合う交わりの時を持とうとしています。それもまた互いの経験と言葉を通して、慰めと励ましを与えられる機会となればと願っています。伝道とは派手な宣伝やパフォーマンスをすることではありません。共に礼拝を守り、福音を確認し合うことです。また、次の日曜日もこの話を聞きたいと思うような説教がなされ、また来週もここに来たいという礼拝と交わりがなされていくことです。

 

 44節からは、次の安息日とその後のことが書かれています。「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうと集まってきた」。「ほとんど町中の人」というのはいささかオーバーな表現でしょうが、あっと言う間に、噂が噂を呼ぶようにして、ユダヤ人だけでなく、この町に住む異邦人たちも大勢パウロの話を聞きに集まってきたのです。パウロの語る福音は、ユダヤ人の会堂に集うユダヤ人や改宗者だけでなく、この町の多くの人々の関心を呼び起こしました。

み言葉が語られ聞かれるところには新しい出来事が起こされます。けれども、そこでは思いがけない反応や反発も生まれてきます。45節には、「しかし、ユダヤ人たちはこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」と書かれています。この人たちは、先に「次の安息日にも同じことを語ってくれ」と言ったユダヤ人たちとは別の人々だったのでしょうか。別の人たちもいたかもしれませんが、なかには最初熱心にパウロの話に聞き入ったけれども、その話を今や異邦人たちが喜んで聞いていて、続々と会堂に集まって来る様子を見るにつけ、これは自分たちが期待していたこととは何だが違うと気づいて、突然手のひらを返したように口汚くののしり始め、パウロの話すことに反対するユダヤ人たちが出て来たということです。

 ユダヤ人たちがねたんだというのは、いったいどういうことでしょうか。新しくやってきた教師が人気を集めているのがおもしろくないということもあったかもしれませんが、もっと大きなことは、パウロの語る福音がユダヤ人たちにとって、自分たちこそ神の民であり、自分たちこそまず救いにあずかるべき者だという誇りを傷つけるものだったからです。その頃、ユダヤ人の会堂には、ユダヤ人ではないけれども、唯一の神を畏れ、ユダヤ人たちの律法に従う道徳的な生き方に共感する異邦人たちが多く集まっていたようです。けれども、ユダヤ教側は彼らを会堂に受け入れつつも、あなたがたもユダヤ人と同じく割礼を受け、ユダヤ人にならなければ神の救いにあずかれないと教えていたのでした。ですから、多くの神を畏れる異邦人たちにとって、聖書の教えは憧れでしたが、入信のハードルは高かったのです。ところがパウロは、モーセの律法によるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、すべての人は神の前に義とされるのだ、救われるのだと明言しました。それは、救いを求める異邦人たちを捕え、彼らの心に浸み込んでいくものでした。しかし、ユダヤ人にとって、それは自分たちの生きる拠り所であり誇りを打ち砕かれることだったのです。そのために彼らは、最初は喜んで聞いてもいたパウロの説教を、口汚くののしり、反対するようになっていったのです。もっとも、同じようなことは私たちの場合にも起こるかもしれません。自分の生き方や誇りに固執するあまり、神の恵みの下にへりくだって立つ素直さを失ってしまうことが起こるのです。パウロは、集会の終了後についてきた人々に「神の恵みの下に生き続けるように」と語っていましたが、それは私たちも忘れてはならない大切な勧めです。

 

 このようにねたみを覚え、反発してくるユダヤ人たちに対して、パウロとバルナバは

勇敢に語っていきます。「勇敢に」という言葉は、「大胆に」とも訳すことのできる言葉です。それは、聖霊によって導かれた言葉であり、人間の意志や願いによっては語り得ない、神の深いみこころを告げる言葉でした。46~47節です。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方へ行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた。あなたが、地の果てにまでも、救いをもたらすために』」。

  パウロの言っていることを語り直せば、神の言葉はまずあなたがたに語られるはずでした。すなわち、イエス・キリストはユダヤ人としてユダヤ人の中にお生まれになったのです。このイエス・キリストの救いに真っ先に招かれたのはあなたがたのはずでした。しかし、あなたがたは自らの誇りと頑なさによってそれを拒み、自分自身を主イエスによる罪の赦しと永遠の命を得るに値しない者としてしまいました。だから、神の言葉は異邦人にもたらされ、異邦人があなたがたのあずかることのできない救いにあずかっていくことになるのだというのです。

 パウロはここで、「わたしたちは異邦人の方へ行く」と言っていますが、この方向転換は主なる神のみこころによることです。そのことが47節の旧約聖書の引用によって示されています。これは今日旧約聖書から読んだイザヤ書49章6節の預言ですが、この言葉は元々主イエス・キリストの到来を預言した言葉でした。ルカによる福音書2章には、主イエスがお生まれてなって八日目に両親とともにエルサレム神殿に上った時のことが書かれていますが、シメオンという老預言者が幼子イエスを抱いて、この方こそ「神が万民のために備えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光」だとうたうところがあります。異邦人の光として、地の果てまで救いをもたらす方とはイエス・キリストのことです。けれども、パウロとバルナバは今、その言葉を自分たちに授けられた使命を預言している言葉として引用しているのです。

 ユダヤ人たちは、ひどくねたみ、口汚くののしったのに対して、「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した」(42節)とあります。ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、バルナバとパウロをその地方から追い出しにかかりましたので、二人は「足の塵を払い落とし」(51節)、アンティオキアを去り、イコニオンに行くのです。足の塵を払い落とすとは、かつて主イエスが弟子たちを町や村に派遣された時に命じられたことですが、一生懸命務めを果たしたにも関わらず、福音を受け入れないその町に対して、きっぱりと別れを告げるしるしでした。しかし、この町で福音を受け入れて主イエスの弟子となった人たちは、パウロやバルナバが去ったことで失望・落胆してしまうのではなく、彼らから聞いた福音のすばらしさのゆえに、喜びと聖霊に満たされていたのです。

神の言葉が語られ聞かれるところで、喜びと讃美に生きる者が起こされ、同時にねたみや反発や嘲笑が引き起こされます。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(コリント一1:18)とパウロが語っているとおりです。神の恵みを素直に受け入れるのか、自分の知恵と力と誇りに固執するのかの違いです。そのどちらの道を行くのか、私たちは選択と決断を迫られるのです。

 

 けれども、最後にもう一つ大事なことを確認しておきたいと思います。48節に「そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」と書いてあることです。福音を聴いて主イエスを信じる決断ができたということも、そこには自分の意志に先だち、それを超えて、神の確かな導きがあったということです。自分が教会に来るようになったのは、親がキリスト者であったとか、キリスト教の学校に入ったからとか、あの人とあの時あそこでたまたま出会ったからだとか、偶然としか思えない出来事によるものであったかもしれませんが、信仰の目をもって見るとき、そこにはやはり神の不思議な導きを認めざるを得ないのではないでしょうか。

 そして、そう考えると、伝道の働きとは、永遠の命を得るように定められた人を信仰へと召し出す神の業に仕えることです。だれが永遠の命を得るように定められているかは私たちには分かりません。今は、頑なに心を閉ざしているからといって、その人が「永遠の命に定められていない」と断定することはできません。「私たちは異邦人の方へ行く」と宣言したパウロとバルナバですが、彼らはこの後も行く先々の町で、まずユダヤ教の会堂に入って福音を語ることをやめてはいません。パウロの心の中から、同胞であるユダヤ人たちの救いを求める祈りは、生涯消えることはありませんでした。

 私たちは神の選びを信じているからこそ、謙遜と確信をもって、キリストから委ねられている伝道の業に励むのです。この町にも神に選ばれている人が大勢いることを信じて、たとえ一時的には反発を招き、つまずきをもたらすことがあったとしても、落胆せずに忍耐強く宣べ伝えるのです。主イエス・キリストが私たちのために死んで復活されたこと、このキリストの十字架と復活を信じるならば、私たちは罪赦され、永遠の命が与えられることを宣べ伝えるのです。そして、宣べ伝えた結果は、まったく神にお委ねするのです。神のご計画は私たち人間の思いをはるかに超えているからです。

 

 

 

  新型コロナウィルスへの対応の一環として、やむを得ず礼拝に出席できない方のために

新たにYouTubeによる主日礼拝のオンライン配信と今週の礼拝音声の公開を開始しました。

また、毎週の礼拝終了直後(12:30ごろまでに)速やかに音声ファイルをアップロードする予定です。  

※再生の途中で停止するなど、うまく再生できない場合には、音声ファイルをダウンロードしてから再生してください。

 

過去の礼拝音声

 

 

※音声ファイルの公開方法(参考情報)