●6月15日(日) 特別礼拝
奏楽
招詞 (イザヤ32:15-17)
讃詠 546
信仰告白 (日本キリスト教会信仰の告白)
讃美歌 68
聖書 エゼキエル書34章11-16節 (旧約1352頁)、マタイによる福音書18章1-14節 (新約34頁)
祈り
讃美歌 217
説教 「小さな者をかえりみてくださる神」 牧師 高松 牧人
祈り
讃美歌 332
献金
主の祈
頌栄 543
祝祷
報告
☆今週の祈りの課題「新しく教会に招かれている人たちを覚えて」
今日の説教
2025年6月15日の説教
聖書:エゼキエル書34章11-16節
マタイによる福音書18章1-14節
説教:「小さな者をかえりみてくださる神」 鶴見教会牧師 高松牧人
「いったいだれが、いちばん偉いのでしょうか?」。いつの時代も、どこにおいても、
およそ私たち人間が集まり、共に過ごし、働くところでは問題になります。そのことをめぐって、しばしば争いや憎しみが生じます。そこで私たちは、背伸びをしたり、ふてくされたり、人を傷つけたり、自分を痛めつけたりします。とくに、何事も競争、競争に明け暮れている現代の社会において、大人も子どもも、いろいろな所でランク付けされて、一喜一憂しています。
しかし、そういうこだわりを主イエスの弟子たちも持っていたことが、今日の箇所から伺えます。「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った」(1節)というのです。主イエスの側にいて、主イエスの話を毎日のように聞いていた弟子たちも、この世的な競争意識から自由ではありませんでした。彼らは、「自分たちの中で誰がいちばん偉いか」といった議論を、主イエスが十字架への道を歩んでおられる最中にも、事あるごとに繰り返していたことを福音書は正直に描いています。弟子たちがそうであったように、私たちは信仰に生きるところでも比較や競争を始めます。敬虔さにおいて自己主張をします。
ただ、弟子たちが主イエスに「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と、いつも気にしていることを率直に尋ねたことはよかったのかもしれません。主イエスは天の国に入るとはどういうことか、神のみこころはどこにあるのかをお語りくださいました。この世の思いに取りつかれている私たちですが、主イエス・キリストが何に目を注ぎ、心を傾けておられるか、その御心に耳を傾けていきたいと思います。
今日はマタイによる福音書18章1~14節を読みました。私たちの翻訳聖書では3つの段落に分けられています。主イエスが折々に語られた言葉を、マタイによる福音書はここで関連する主題のつながりで集めています。最初の段落1~5節では「子どものように」とか「子どもを受け入れる」ということが語られています。続く6~9節ではそれを受けて「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」という言い方が出てきます。そして、10~14節では、「これらの小さな者の一人」と語り出され、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と結ばれます。3つの段落それぞれは、少しずつ焦点が異なっていますが、これらを貫いて語られているのは、主イエス・キリストの小さな者をかえりみてくださる眼差しです。それで、今日の話は「小さな者をかえりみてくださる神」という題をつけました。
明治初期に日本に入ってきた讃美歌で、大人にも子どもにももっともよく知れ渡った讃美歌に「主われを愛す」という讃美歌があります。「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われを愛す」というものです。とてもシンプルにして力強い歌だと思います。ところで、すでにお気づきの方もおられるかと思いますが、讃美歌21ではこれまで通りの歌詞でも歌えるようになっていますが、口語文としてもう一つの歌詞でも歌えるようになっています。元の詩を新たに訳し直したものです。その一番にはこうあります。「愛の主イエスは、ちいさいものを、いつも愛して、守るかたです。聖書は言う、イエスさまは、愛されます、このわたしを」と言うものです。そこに歌われているように、主イエスは小さい者をいつも愛して守る方です。これは聖書全体を貫いている主イエスのメッセージです。そしてこれはシンプルで優しい言葉のようですが、ずいぶん厳しいラディカルなメッセージです。何しろ、いつも大きな者、有能で力や地位のある人の方にばかり目を向けている私たちに方向転換を命じるものだからです。
「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。この弟子たちの問いに、主イエスは不思議な答え方をされました。「そこで、イエスは一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ』」(2~4節)。これはいったいどういうことでしょうか。単純な言葉ですが、どう読むか案外難しい言葉です。子どもらしさとは何なのでしょうか。幼い子どもは汚れなく純真だというのでしょうか。しかしそれは、自分の子ども時代のことを思い出しても、そうではなかったと言わざるを得ないのではないでしょうか。子どもは欲望のままに行動しますが、それだけに余計残酷なことを言ったり、したりします。いじめにおいても自制心が働かない分、露骨になってしまいます。でも、私たちが子どもたちを見て、かわいいと思い子どもらしいと感じるのはどういう時でしょうか。それはたぶん子どもが、周りの人々の顔色を気にしたり、忖度したりしない、面白ければ笑いころげ、つらければ泣きわめき、感じたこと思ったことを遠慮なく口にしたりするところではないでしょうか。まったく親や周りの大人たちに頼り切っているのです。自分では何もできないのに、まかせ切って、その時その時のことに集中している姿ではないでしょうか。
主イエスが「子どものように」と言われるのも、そんな無力さ、小ささ、低さ、しかし無条件に信頼している姿を指していると言えるでしょう。子どもが自分のことを心配してくれている親に信頼しきっているように、神の信頼し、神の招きにお応えしていくのです。自分が少しばかりできるとかできないとか、人と比較してどうだこうだというのではなく、自分へのこだわりを捨てた神への信頼と服従です。「自分を低くして」とありますが、それは決してわざとらしく作り上げる謙遜の美徳などといったものではありません。謙遜の徳ということになると、そこではまた謙遜さを競い合うというおかしなことになりかねません。謙遜の装いをしているけれども、それが傲慢の裏返しにすぎないということも少なくないのです。
そうではなく、ありのままに、何もできないものとして、天の父の名を呼び、神の招きにひたすらに従っていくことです。福音の言葉を聴いて、こんな自分が確かに主イエス・キリストを通して、神に受け入れられているということを素直に受け入れていくことです。ある神学者が、私たちの信仰の最も大事なポイントは「受容の受容」だと言いました。受容=受け入れられていること。それを受け入れることです。信仰とは、そして天の国に入るとは、主イエス・キリストにより、神の愛の中に生かされていることを受け入れることにほかなりません。
主イエス・キリストによって受け入れられた者として、小さな者の一人を受け入れるということが別の面から語られているのが6~9節の段落です。ここには、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」、すなわち主イエスが招いておられ、主イエスに従って行こうとしている小さな一人の者をつまずかせることがあってはならないという警告が語られています。
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである」(6節)。その後にもさらに厳しい言葉が続きます。「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出してすててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい」(8~9節)。
「つまずき」というギリシア語はスカンダロンと言いますが、英語のスキャンダルの語源で、元々「罠」という意味です。獣や鳥を捕らえる罠のことです。キリストの招きを受け、キリストに従って行こうとしている人に罠をかけ、その人をすってんころりと転ばせてしまい、キリストと引き離してしまってはならないというのです。深い海に沈められるとはまさに天の国と正反対のところに沈められることです。この世はさまざまな誘惑をもって、人を神の言葉とキリストから引き離そうとするが、そういうものに惑わされてはならないし、そのような悪しき力に加担してはならないと警告されています。これらの強烈な言葉は、裏返して言えば、それだけ主イエスが小さな一人一人のことを心に留め、愛しておられるということです。
10節にいくと、同じくちょっと面白い表現で、神がいかに小さな者たちを重んじておられるかが語られています。「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」。小さな者一人一人には天使がついていて、彼らを守るようにして天の父の御顔を仰いでいるというのです。一人一人に守護天使がついているかのような言い方は、当時のユダヤの人たちの通念に合わせて語られたものと思われますが、ほほえましい情景です。神と小さな者たちがどんなに密接なつながりの中にあり、小さな者たち一人一人を神さまがどんなに重んじておられるかを表しています。
そして、12節以下には迷子の羊の譬えがあります。ルカによる福音書15章にも同じ譬えがありますが、あそこでは徴税人や罪人を軽蔑するユダヤのファリサイ派の人々や律法学者に向かって語られていましたが、ここでは弟子たちに向けて語られています。主イエスが折々に繰り返し語られたたとえなのでしょう。100匹の羊をもっていた人のその中の1匹が迷い出たとき、その人はあとの99匹を山に残したまま、迷い出た1匹を捜しに行くというのです。そして、その迷子の羊を見つけたら、迷わずにいた99匹の羊よりもその1匹のことを喜ぶだろうと言うのです。そもそもその1匹はぼんやりしていたか、羊飼いの言うことを聞かなかったから迷い出たのです。それなのに、その迷子の羊のために99匹を山に残しておいてとは、冷静に考えるとあまりいい判断ではありません。99匹はその間もっと危険な目に遭うかもしれません。けれども、一人の小さな者が滅びることをよしとされない主イエスの愛、そして主イエスをこの世に遣わし、主イエスを私たちの罪のために十字架におかけになるほどに私たちを愛された天の父の愛とはそのような、居ても立ってもいられないものなのだと言うのです。
今日、私たちはマタイによる福音書18章の3つの段落から、主イエスの語られた御言葉を聴きました。そこには神さまが小さな者たちをいかにかえりみてくださるかということ、だから私たちはそのような神の愛を妨げてはならず、小さな者につまずきを与えてはならないということを聴いてきました。しかし、いったい私たちはここでどういう人を小さな者として思い浮かべてきたでしょうか。この世において、小さな者と大きな者とを定める客観的な基準がどこかにあるのでしょうか。そんなものはありません。その人を小さい者と見るのは、その人を小さくしているのは、私たちが自分をそれだけ大きくしようとしているということではないでしょうか。
小さな者とは、第一の段落にあったように、まだ世の中から一人前と認知されていない子どものことでありました。しかし、第二の段落にいくと、「わたしを信じるこれらの小さな者」とあるように、主イエスによって信仰を与えられた者たちですから、主イエスの弟子たち、教会に集められた者たちです。さらに、第三段落にいくと、羊飼いのもとから迷い出てしまった者、間違いを犯して滅びの淵にさまよっていた者たちです。しかし、それらをひっくるめて、「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの父の御心ではない」と主イエスは言われたのです。
これら一連の御言葉において、主イエスが私たちに語りかけておられることは、周りを見渡して小さな者に憐れみをかけなさい、助けてあげなさい、ということではありません。小さなあなたのことを私の父である神は忘れておられない、小さなあなたが滅びることをあなたがたの天の父は欲してはおられない、という主イエスのメッセージです。
自分が99匹の中にいると思い、あの迷子の一匹を迷惑な奴だと思っているところで、主イエスの言葉は響いてきません。小さな者たちへの愛は生まれてきません。しかし、神が主イエス・キリストによって、この私の名を呼び、この私のことを深く心にかけて訪ねてきてくださったのです。そのことに気づき、その愛によって生かされていることを知るとき、私たちもまた一人の隣り人のために心を動かしていくことができるのです。その仲間と共に歩むことができるのです。
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