今週の礼拝音声と礼拝順序

 

2025年7月13日の礼拝音声(当日礼拝後12時頃から)

 

2025年7月13日のYouTubeライブ配信(当日10時20分頃から)

 音声が不安定となっており、とぎれとぎれになってしまう点、ご容赦ください

 「礼拝音声」の方もご活用ください 

 

2025年7月13日の礼拝説教ファイル

 

 

過去の礼拝説教ファイル

  ※直近のものは、一番下にあります

 

●7月13日(日) 主日礼拝

 

 奏楽   

招詞  (詩編19:2-5a)

讃詠 546

信仰告白 (使徒信条)

讃美歌 73

聖書 イザヤ書52章13-53章6節(旧約1149頁)

使徒言行録2章14-24節   (新約215頁)

祈  り       

讃美歌 235

説教  「神の救いの計画」     牧師 高 松 牧 人

祈  り  

讃美歌 261

献金     

主の祈

頌栄 544

祝祷

報告

 

 

 

 ☆今週の祈りの課題「今年度前半期の歩みを感謝して

 

 

 2025年7月13日の説教

聖書:イザヤ書52章13節―53章6節

使徒言行録2章14-24節

説教:「神の救いの計画」                  鶴見教会牧師 高松牧人

 

 先週の日曜日、私たちは使徒言行録2章1~13節から、ユダヤの五旬祭、すなわちペンテコステの日に、主イエス・キリストがかねてから約束しておられた聖霊が、集まって祈りを合わせていた弟子たちの上に注がれたことを読みました。聖霊に満たされた人々は、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出しました。いったいどんなことが起こったのかは詳しくは分かりませんが、その日エルサレムの都に各地から集まってきていた人々は、それぞれ自分の故郷の言葉で、彼らが神の偉大な業について語るのを聞いたのでした。それはペンテコステに起こった特別な奇跡でした。新しい時代の始まりを告げるしるしでした。そして、使徒たちの説教が行われます。教会の宣教がスタートするのです。地上に教会が誕生したのです。

 「ペトロの説教」という小見出しのついている2章14節から読みましたが、ペトロの説教は36節まで続きます。ですから、36節まで一続きに読み通すべきところですが、少し長い箇所ですし、大切なことがいろいろ語られていますので、今日は、全体の流れを踏まえつつ、その説教の前半部分24節あたりまでを見ていきたいと思います。

 ペンテコステの日、地上に生まれたキリスト教会の最初の説教です。教会の歴史の出発点においてなされた説教を、ペトロはどんな表情で、どんな口調で話したのか、興味のあるところですが、残念ながら今日のような写真もビデオもありません。残っているのはこの使徒言行録の文章だけです。しかも、ペトロの書いた原稿やそれを聞いた人が速記したものがあったわけでもありません。そもそも、この最初の説教をまとめているのは使徒言行録の著者ルカです。彼はそれを直接聞いたわけではなく。おそらく教会の中で言い伝えられてきたことから、まとめたのでしょう。また、注意深く読みますと、14節に「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」とあります。ペトロが一人で大演説したとは書いていないのです。十一人と共に立って語っているのです。もちろん、みんなが演壇に並んで声を合わせて叫んだわけではないでしょうが、先に補欠選挙で選ばれたマティアを加えたあの十二人の使徒団が語っているのです。代表して語ったのがペトロであったとしても、決してペトロの一人芝居ではなく、十二人の使徒団が責任をもって語りかけているのです。それがルカの書き方です。ですから、私たちはここから、聖霊に満たされてその歩みを始めた最初の教会が、何を一番大切なことと語ったかということを聴きとることができるでしょう。

 

 このペトロの説教のきっかけは、ペンテコステの日、聖霊に満たされた人々が他の国々の言葉で語ったのを聞いた人たちが、神の偉大な御業が語られていることを知って驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言ったことにあります。しかし、驚き、感動した人々もいた一方で、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言ってあざける者もいた、とありました。神の霊によって神の言葉が語られたときも。聞く人々の反応はさまざまです。それらの言葉を、心開いて受け取る人もいれば、心を閉ざし、あざ笑い、敵対する人も生まれてきます。そこに、人間の言葉を用い、宣教の愚かさによって救いの御業を進めて行かれる神の謙虚さと賢さがあります。

 ペトロは、まず町の人々の多様な反応を受けとめながら、「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください」と話し始めます。酒に酔っているのだろうとあざける人々もいるようだが、今は朝の九時ですから、こんな時間から酔っ払っているはずはないでしょうとユーモアを込めて反論した上で、「そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われたことなのです」と語るのです。今日、この朝ここであなたがたが見聞きした驚くべきことは、かねてから預言者ヨエルを通して預言されていたことが成就した出来事なのだというのです。17節から21節にあるのはヨエル書3章1~5節の言葉です。旧約聖書のヨエル書3章の言葉と読み比べると、少し言い回しが違うところがありますが、それはルカが引用している聖書が七十人訳と言われるギリシア語訳の旧約聖書だということと、ペトロの主張を分かりよくするために少し手を加えているところがあるからです。けれども、ヨエルの預言をほぼそのまま引用していると言ってよいでしょう。

 旧約聖書では、代表的な預言書であるイザヤ書やエゼキエル書においても、いつの日か神がイスラエルの民に霊を注がれるとき、イスラエルそのものが質的に新たに造り変えられるであろうという預言がなされていました。ヨエル書はアモス書とホセア書の間に置かれている小さな預言書ですが、その3章では諸国民が裁かれる終りの日が来る前に、すべての人に神の霊が注がれ、若者にも老人にも預言の賜物が与えられるという約束が語られています。ペトロはあなたがたが目の当たりにしている聖霊降臨の出来事は、まさにヨエルが語った預言の成就であり、終りの日の到来を告げる出来事だと語るのです。そして、天と地に災いが起こり、太陽が暗くなり、月が血のように赤くなる最後の審判の時にも、「主の名を呼び求める者は皆、救われる」とヨエルが預言したように、今やユダヤ人だけではなく、主イエス・キリストの名を呼び求める人はすべて救われるのだと告げるのです。

 ぺトロの説教、すなわち誕生したばかりのキリスト教会が告げたことは、イエス・キリストの十字架と復活、昇天と聖霊降臨の出来事は、かねてから預言者たちが預言し、神が計画しておられた救いの御業の成就なのだということをまず強調して語るのです。

そして、この後ペトロは、私たちがその名を呼び求めるべき主であるお方、主イエス・キリストはどのようなお方かを詳しく説き明かしていくのですが、そこでもペトロがこのあと論拠として用いるのは詩編16篇と110篇で、それらの御言葉を引用しながら、イエス・キリストの十字架と復活を語るのです。

 ここで私たちは改めて、キリスト教会を建てていくものは、目新しいニュースや気の利いた処世訓や思想や時代精神の論評ではなく、どこまでも書かれた神の言葉の説き明かしであるということを確認させられます。古くからモーセを通し、預言者たちを通して神の民に与えられてきた聖書の言葉、その御言葉をイエス・キリストの光のもとで、聖霊の導きによって新たに聴き取るとき、私たちは新しく生かされていくのです。そこで、新しいイスラエル、イエス・キリストの教会は建てられ、そこに御言葉に生きる人々が集められるのです。

 

 ペンテコステの聖霊降臨の出来事が、かねてから語られて来た預言の成就であり、神の救いの計画によるものであることを語った後、ペトロは「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください」と語りかけます。ここから説教はいわば本論に入っていきます。ここで語られるのはイエス・キリストの十字架と復活です。そしてこの説教の結びは36節です。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。十字架にかかって死なれ、復活して勝利に導かれたこのお方こそが、私たちの主でありメシア(救い主)なのだというのが、初代教会の宣教の最も中心メッセージです。

 まずペトロは「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」(22節)

と語ります。そのことをあなたがたはしっかり見てきたはずだと言います。他の民ならいざ知らず、神の選びの民であるイスラエルは、神から遣わされたイエスを受け入れるべきだったのです。けれども、この方を「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけてしまったのです」。「律法を知らない者たちの手を借りて」とは、

異邦人たち、具体的にはローマ帝国の総督ポンティオ・ピラトとその手下に引き渡したということです。神にそむく者として断罪したイエスを、イスラエルの民は自分たちのやり方ではなく、ローマ帝国に反逆する者として、ローマ帝国によって十字架にかけて、処刑してもらったのです。ここでは、神の民イスラエルが自分たちの神の前に犯した、とんでもないとてつもない罪が指摘され、断罪されています。

 しかし、ペトロはここでただ他人事のようにユダヤ人たちの罪を責めているわけではありません。言うまでもなく、ペトロ自身はユダヤ人でありイスラエルの民の一員です。主イエスに選ばれた十二弟子の筆頭でした。彼は、ここで自分も確かにその一人であるイスラエルの民であるにも関わらず、神の遣わされたイエスを拒み、知らないと言って裏切り、殺してしまった自らの取り返しようのない深い罪を自覚しています。主イエスの十字架の死を語るとき、誰も自分の深い罪に触れないで通り過ぎることはできません。 私たちはイスラエルの民ではありません。異邦人です。しかも、はるかにㇸだった時代と場所に生きています。けれども、神の御子イエスは、自分たちは神に近く、神に従っていて、罪人ではないと思っている正義感あふれる人たちによって死に追いやられたことを思うとき、私たちも主イエスの十字架と決して無関係なところを生きているわけではないことを知らされます。「イスラエルの人たち」との呼びかけには、ユダヤ人だけでなく、古いイスラエルの罪を受け継ぎ、主イエス・キリストの赦しの恵みをいただいて新しいイスラエルの民としての教会に招かれた私たちも含まれているのです。

 

 ところで、驚くべきことに、神の御子イエスの十字架という大事件が神の民イスラエルによって引き起こされたということの中にも、「神のお定めになった計画」があったとペトロは語ります。そのことは、今日旧約聖書から読みましたイザヤ書の52章13節から53章にかけての御言葉からも教えられます。イザヤ書後半40章から55章には、イスラエルの捕囚からの解放を告げる明るく力強い預言の中に、主の僕の詩というのが4つ、不思議な形で置かれています。その中でも最も長くて有名な僕の詩が今日読んだものです。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(3節)。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と」(4節)。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打たれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(5節)とうたわれています。さらに「苦役を課せられて、かがみこみ、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(7節)とも語られています。紀元前6世紀の預言者の詩なのに、そこで私たちは十字架の主イエスその人を思わずにおれません。初代教会の人々は主イエス・キリストを苦難と死を語るとき、そこにあのいにしえの預言者が語った僕の詩を思い起こしました。ナザレの人イエス・キリストのご生涯と苦難と死には、私たちの思いに先立ち、それをはるかに超えた父なる神のご計画とご意志が貫かれていたのです。

 ペトロも十一人の使徒たちも、主イエスの十字架に至る最後の日々のことは、つらく悲しく情けない思い出として抱え込んでいたでしょうし、他方、復活の主との出会いは夢のような驚きの連続であったに違いありません。それらは、自分たちが経験してきたこととはいえ、次々と起こる事態に振り回されるばかりで、全体の流れをどう考えたらよいか分からなかったのではないかと思われます。けれども、聖霊が注がれた今、彼らは自分たちの今日ここに至るまでのいっさいの出来事の中に、人間の思いをはるかに超える神の救いのご計画が貫かれていることを知るに至ったのではないでしょうか。バラバラであった事柄が次々とつながっていったのではないかと思われます。

聖霊は、私たち人間の不真実と罪の中にも、神の救いのご計画が貫かれ実現していることを明らかにしてくださいます。神の御業とみこころを私たちに教えてくださいます。不完全で失敗だらけの私たちも、神の恵みのご計画の中で確かに受けとめられ、用いられていることを知らされるのです。 

 

 

 

  新型コロナウィルスへの対応の一環として、やむを得ず礼拝に出席できない方のために

新たにYouTubeによる主日礼拝のオンライン配信と今週の礼拝音声の公開を開始しました。

また、毎週の礼拝終了直後(12:30ごろまでに)速やかに音声ファイルをアップロードする予定です。  

※再生の途中で停止するなど、うまく再生できない場合には、音声ファイルをダウンロードしてから再生してください。

 

過去の礼拝音声

 

 

※音声ファイルの公開方法(参考情報)